遠近法ノート

本好きのデザイナー、西岡裕二の日記帳なのです。デザインと読書について書くはず。

革命か?テロか? ハインライン『月は無慈悲な夜の女王』を読んで、「これってミステリなんじゃね?」と思ったんだけどそういう話でもなくて、でもやっぱり解決に至れずもやもやする件について。

映画『スターシップ・トゥルーパーズ』と原作『宇宙の戦士』

スターシップ・トゥルーパーズ』(1作目)という映画を見たことがあるでしょうか。あれです。巨大昆虫がわさわさ襲ってくるやつ。98年公開だから、僕が見たのは2004年ごろだったと思います。
お話がもろ軍国主義っぽくて、「まるで国策映画みたいだな!」と一種のカルチャーショックを受けたんですけど、しかしその見方はどうやらちょっと違いました。
たしか、映画はニュース映像のシーンから始まり、ニュース映像で終わるという、額縁にはめ込まれた構造で、内容をそのまま受け取らないようにという配慮というか、そういう処理がなされていました。どうやら、娯楽映画なんだけど戦争プロパガンダ映画のパロディで逆説的に反戦という、えらくややこしいことをやっていたらしいんです。ただ、それが成功しているとはまったく言えず、ベタにドンパチを描きたかっただけのように見える。「おバカ映画」と評しておけば安全(映画秘宝的価値観)なのでしょうけど、それでは済まない何かがある、へんに引っかかる作品でした。
「額縁にはめ込む」という手法は、19世紀の小説にはよくあったものです。作者が読者に対し、「これからするお話は、誰それの手記を私が預かったものですよ」とか「これは誰それに聞いた話ですよ」とか宣言するんです。「この文章はフィクションであって現在進行形じゃないです」ということを、あらかじめ読者に納得してもらう手続きなんですね。
この手法は、20世紀になって近代文学が成立するとだんだん使われなくなっていきました(今でも怪談などで効果的に使われることもありますが)。作者と読者のあいだで「小説」というもののお約束が共有されるようになると、額縁は省略可能、なくても大丈夫になったわけです。
先日、原作小説である『宇宙の戦士』を読んだところ、『スターシップ・トゥルーパーズ』にあった額縁はなく、そのままお話が始まっていました! あれは原作準拠じゃなかったんだ! かの額縁の手法は「銀河の片隅でこんな出来事があったようだよ」的な表現で、配慮のようでもあり責任回避のようでもあり、微妙に気になっていたんですけれど。
ハインラインの『宇宙の戦士』は、パワードスーツ(機動歩兵)のアイデアが日本のロボットアニメの元ネタになったことで知られている一方、内容が軍国主義的、右翼的、とか言われて論争を巻き起こした作品でもあります。そのまま映像化すると本当に戦争プロパガンダ映画になってしまいそうですから、額縁表現は、まあ妥当な操作だったのかもしれません。
ちなみに、『宇宙の戦士』出版当時の読者には、ハインラインSF小説がだいたい「未来史シリーズ」に属することが了解されていて、いわば小説の外側に額縁があるような状態であったことも付け加えておきます。


……前置きが長くなりました。
本題は、ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』なんです。

月は無慈悲な夜の女王』を読んだ

僕が『月は無慈悲な夜の女王』を手に取ったのは、単に「古典だし代表作だから読んでみよう」くらいの気持ちからです。最近、ちょっと時間が出来たときに、読み逃してた古典作品を読んだりしているんです(ちなみに『アクロイド殺害事件』と『ギリシア棺の謎』もわりと最近読みました)。いちおうSF好きではあるものの、海外物はP.K.ディックやW.ギブスンから入ってしまったので、クラーク、アシモフらと名前と作品を混同する程度の知識。世代的に、H.G.ウェルズジュール・ヴェルヌほどには古典になってないんですよね。ハインラインは『夏への扉』くらいしか読んだことがありませんでしたので、Webでの評判もいくつか見たりして、少し予備知識を得てから取りかかりました。
とりあえず、おおまかなあらすじはWikipediaも参照していただくとして(wikipedia:月は無慈悲な夜の女王)。

以下、ネタバレ配慮なしなので、お気をつけください

月は無慈悲な夜の女王』は月世界が地球からの独立革命を目指すお話です。
冒頭は、意思を持ったコンピュータ、マイクと主人公マニー(マヌエル)の出会い。「パソコンもない時代に、こんなふうにコンピュータの姿が書けるとは!」と、素直に感心しながら読み始めました。
中盤は、かなり退屈な場面が多く、ところどころ、主人公たちの行動に違和感をおぼえる場面があったのですが、まあSFだしなーと思って、そのまま先へ。
しかし、地球への旅から月に戻ってきたあたりで、だんだん疑念が大きくなってきました。教授とマイクがマニーに隠し事をしていたことが明かされたり、議会をだましたり、地球側に嘘の情報を送ったり。あれれ、こんなことでいいんだろうか……?
そして、中盤を過ぎたあたりで、僕はうっかりこう気付いてしまったんです。
「これって叙述トリックなんじゃね?」と。
そのとたん、表面に書かれたお話と平行する、まったく別のお話が見えた気がしました。
物語はマニーの一人称で書かれているため、読者はマニーが見聞きしたものしか知ることが出来ません。そして、マイクはいくらでも嘘がつけるマシン。CGで偽映像さえ作れる。情報のやりとりにマイクを介しているかぎり、それは単に「マニーが見聞きしたもの」にすぎない、と。
マニーは正直に語っているようですが、その情報は主にマイクから得ています。革命の実質的な首謀者は教授であり、マニーは巻き込まれ型。マニーとマイクが会話をしているそのあいだに、教授とマイクも会話をしているはずです。それはマニーの体験ではないので書かれません。教授とマイクは、目的遂行のために敵味方双方をだますことも辞さないのです。マイクはマルチタスクであり、もしかしたらマルチ人格なのかもしれません。そうではないとどうして言えるでしょうか。
マニーの主観をそのまま受け取るわけにはいかない(信頼できない語り手)。マイクからの情報を信用してはいけない。こう、ミステリ読みの僕は思ってしまいました。
革命とは、反転すればテロです。マイクを疑ったため、以降の物語は革命ではなくテロのお話になってしまいました。ネットワークを利用して嘘の情報を拡散し民衆を動員する、恐ろしく仕組まれたテロです。マニーはその渦中にありながら全貌を知らず、無論、読者にも全貌は見えない。ですが、マイクと教授による非情なテロ戦争、大量殺人が悪夢のように進行していくのです(マイクの岩爆撃で地球側に犠牲者が出るところ、情報を操作してわざとやったと理解しました。自分にはそのようにしか読めませんでした)。
マイクは教授亡き後もプログラムを進め、最終的に対地球テロは成功に終わります。成功したテロは歴史的には「革命」となります。すべて計画通りということなのでしょうか? でも、これでは月世界が独立したんだかマイクが支配したんだかわかりません。まあ、マイクは何故かいなくなっちゃうんだけど……。終盤、マニーはなすすべもなく重要でない人物に転落していきます。革命後に中心人物を退場させることさえも革命プログラムのうちなのでした。
何も知らない気の毒な主人公マニー!
……と、こういうふうに読みました。

読んだ後、だんだん分からなくなってきた

読後、大きな畏怖と謎の感動をおぼえつつも、僕はもやもやとしていました。
事前に読んだ書評やら、ハインラインという作家になんとなく持っていたイメージと大きく食い違いがあったからです。それにあのラスト。解決編のないミステリを読んでしまったような……というかそもそも『月は無慈悲な夜の女王』がミステリだという話は聞いてないよ?
普通なら(というかミステリなら)ラストに書かれるであろう、種明かし的な記述がなく、物語は最後に至るまでマニーの視点のみで語られ、それ以上の手がかりがないため、自分の読みが「正しい」のかどうか分からない……。
アマゾンのレビューは全部読み、ググって出てきた感想に目を通しました。でも、なんだかひどく印象が違う。みんな親切にネタバレ回避してくれてるの?
僕は何か大きく誤読をしているのか……だんだん分からなくなってきた……。

叙述トリックとは何?

思うに、途中で「これって叙述トリックなんじゃね?」と気付いてしまったのがアレなんです。
いちおう簡単に説明しますと、叙述トリックというのは、「男だと思って読んでたら女だった」とか「語り手が犯人だった」とかそういうやつです。小説の語りそのものにトリックがあり、ある時点まで読者を誤認させて結末の驚きを与えるもの。多少ミステリを読んでる方なら思い当たる作品がありますよね。
僕は『月は無慈悲な夜の女王』を読んでる途中で「叙述トリック来る?来た!」と思ったんですが、これは少々早とちりで、最終的には確定情報が「来なかった」。ミステリで「叙述トリック」と呼ばれるものとは、違うようです。
ただ、僕の中で白黒が反転したことは事実なので仕方ありません。どうやらこれは、一人称の「語り」の問題について考えてみないといけないようです。

何故、一人称で書いたんだろう?

そもそも、革命という大きな出来事を書くのに、一人称を採用した理由はなんでしょうか。
普通に考えると、三人称を採用しそうです。あるいは一人称だとしても複数の人物を交代させたほうが全体像が書けそうです。
月は無慈悲な夜の女王』では、そこをあえて一人称視点で押し通すことで、革命の全体像ではなくて、あくまで一断面を書いています。
読者に見えるのはマニーを通した一断面だけ。ですが、マニーが語っていないことを、こちらがある程度読み取ることが出来てしまう。一人称でありながら、神の視点が感じられる。これは単なる二次創作的な妄想なんだろうか? いや、どうも意図的に行間が読めるように書かれているように思えるんですけど、そうじゃないのかなあ……。

額縁がないということ

こういう宙づり状態で真相が決定できないパターンって、枠囲いを追加すれば一見解決しそうに思えるんですよね。
たとえば、マニーの語る物語全体をマイクが記録したログだということにするんです(SFではありがち)。ラストにマイクが解説してくれたら、話がすごく分かりやすくなるはずです。
だけどその場合、厳密に言うとそこでマイクが真実を語っているかどうかが決定できなくなり、問題は根本的には解決しません。
実際には(『宇宙の戦士』と同じく)額縁はないわけで、内容の読解は読者に任されたかたちです。真相に到達できないという意味では、読者もマニーとたいして変わらない立場におかれていると言えるかもしれません。
これほどの長編で解釈が反転するような余地を残すって……あんまり例がないような。いや、大半の人はストレートな革命ものとして読んでいるようなんですが……。

もやもやが晴れない

なんだかもやもや感が晴れないのですけれど、一種のリドル・ストーリー(『藪の中』みたいな、真相が書かれない物語)だと思ったほうがいいのでしょうか。
いろいろ考えてみたんですけど、分からないことが増えるばかりです……(実は翻訳に問題があるのではないか、と疑っています)。
そんなわけで、皆さんも『月は無慈悲な夜の女王』を読んでもやもやしませんか?(←あ、投げた!)

おまけ:でもやっぱりミステリとして読んで欲しいんじゃないかという気がする

ドクター・ワトソンがIBMを創立する前に書いた小説にちなんで、おれはこの計算機にマイクロフト・ホームズという仇名をつけたのだ。
──ロバート・A・ハインライン月は無慈悲な夜の女王

最初の1ページ目、コンピュータの「マイク」の名前がホームズから採ったものだと明かされます。マイクロフト・ホームズはシャーロック・ホームズの兄の名(wikipedia:マイクロフト・ホームズ)(『屍者の帝国』にも出てきましたね)。『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』所収の「ブルース・パティントン設計書」を読めば、ハインラインがなぜマイクロフトの名を使ったのか、明白に分かります。ワトソンはIBM創立者の名、です(wikipedia:トーマス・J・ワトソン)。
ちなみにマイクロコンピュータという言葉はもともとアシモフの短編で最初に使われた用語なのだそうですね(wikipedia:マイクロコンピュータ)。また、クラーク『2001年宇宙の旅』のコンピュータHALは、IBMを1字ずらした説がありますが(wikipedia:HAL 9000)、この名付けはそれも意識してる?時期が微妙?むしろ逆? ついでに言うと、2009年のこと、IBMは自社の人工知能コンピュータにワトソンという名前を付けてしまいました(wikipedia:ワトソン (コンピュータ))。ややこしすぎるだろ……。
それはともかく、作者はこの一文でかなり高度なジョークを仕掛けてきています。「ホームズの相方でホームズ物語の記述者のワトソン」と「IBM創立者のワトソン」を、わざと混同しているのです。しかも、主人公マニーが分かっててこのジョークを言ってるのかどうかはっきりしないんですよね!
このくだり、ミステリの読者にはすんなりと、マイク=ホームズ、マニー=ワトソンと役が割り振られていると読めます(ただし、ホームズと言ってもシャーロックではなく兄のマイクロフトのほうだという点が重要)。すなわち「これはミステリだから以後気をつけてね☆」と言われているに等しい。序盤のマニーとマイクの会話は、マニー視点ではマニーが教師で、自我をもてあました子供を導いているつもりなのです。その実、ワトソンがホームズの突飛な考えや行動に翻弄される様子をなぞっており、ここに多くの伏線が埋め込まれているように思えます。読者の序盤の目的は、マイクに何が出来て何が出来ないか、マイクの行動原理を見極めることでしょうか(マイクの目的設定を「ジョークを理解すること」と解釈するのもいいでしょう)。
僕の場合は中盤までぼんやりと読んでしまいましたけど、すれたミステリ読者なら、ワトソン役の一人称という時点で身構えるのではないでしょうか。

追記:ここまで読まれた方は、ぜひ以下のコメント欄↓も最後まで読んでみてください。