遠近法ノート

本好きのデザイナー、西岡裕二の日記帳なのです。デザインと読書について書くはず。

父に聞く その1

父に聞いた話(主に仕事について)をまとめます。たぶん三回くらいにわけて。

中学卒業後、製版所に

父は1944年(昭和19)生まれ、中学校を卒業したのは1959年(昭和34)です。
近所の人が紹介してくれた○○写真製版所に入りました。忙しいからと手伝いを頼まれ、卒業前の三学期から仕事に行ってたらしいです。義務教育なんだけどな……。
なぜこの製版所だったかというと、最初は新聞社の仕事と聞いていたからなのでした。
新聞社には「画工部」といって、見出しをレタリングしたりする部門があり、そこに入りたかったらしいのですが、結局かなわず。実際の仕事は製版で、やりたい仕事ではありませんでしたが、それでも二年ほど働きました。
だいたい中卒で新聞社に入れるわけもないと思うところですが、まあ無理もありません。
当時は右も左も分からない父なのでありました。
○○写真製版所での仕事は、新聞を印刷するための版を作ることでした。要するに印刷の前段階の作業です。
銅板をスミみたいなもの?で磨いたことをよく憶えているといいます。
その銅板に、別行程で作ったフィルムをアーク灯で焼き付けます。そして銅板を液で腐食させると網点が浮き上がってくきます。こうして出来上がるのが写真用の版。文字と写真の版は別々で、文字は亜鉛版、写真は銅版を使っていました。

町の看板店に入る

1961年(昭和36)、年表によれば世の中がそろそろ高度経済成長期に突入しようかという頃。
絵や文字を書く仕事がしたかった父は、製版所を辞めたあと、○○看板店に見習いのようなかたちで入りました。町の看板店で、従業員は父を入れて三人。当時は、こうした町の小さな看板店というのは結構あったらしいです。
もちろん、最初から描かせてもらえるわけはなくて、手伝いをしたり、サイドカーで看板の配達をしたりしていました。
ん? なんでサイドカー
面白いことに、そのころ町の看板店はみなサイドカーを持っていたそうです。車はまだ一般に普及していなかったわけですね。大きめの看板店ではオート三輪を使っていたようです。
サイドカーの運転はなかなか難しくて、溝に落ちたりしたことも。慣れてくるとカーブでぴゅーっと傾けて走るのが面白かったとか。
○○看板店では照明看板の仕事が多かったようです。照明看板というのは、中に蛍光灯を入れた光る看板で、今もよく見かけるものです。ただし当時はプラスチックはなかったから、ガラス製でした。
ガラスのおもてから文字を下書きし、裏から塗ります。そのあと、背景色をタンポでたたくように塗ります。中から光を当てるわけですから、筆の跡が出ないように色を付けるのですね。
○○看板店での仕事は、数ヶ月のアルバイトでした。
いつの頃からか、父は映画看板の仕事がしたいと思うようになっていました。
(つづく)

父に聞く その1
父に聞く その2 id:n-yuji:20050828
父に聞く その3 id:n-yuji:20050911
父に聞く その3 id:n-yuji:20050924