本稿は、『人はなぜ物語を求めるのか』(千野帽子、ちくまプリマー新書)を足がかりに、いわゆる「ドクター・スミス問題」について考察するものです。ついでにその出所(元ネタ)も探ります。
このなぞなぞは、正解に達して終わりというものではありません。
(『人はなぜ物語を求めるのか』P.12)
この言葉を真に受けて、さらにその先を考えてみるという趣向です。
ちょっと長いですが、冒頭の「はじめに」から引用します。
つぎのふたつのなぞなぞ(どちらも、とても有名ななぞなぞです)は、人間の考えや行動の秘密を教えてくれます。
問1(略)
問2 ある男がその息子を乗せて車を運転していた。すると、車はダンプカーと激突して大破した。
救急車で搬送中に、運転していた父親は死亡し、息子は意識不明の重体。
救急病院の手術室で、運びこまれてきた後者の顔を見た外科医は息を呑んで、つぎのような意味のことを口にした。
「自分はこの手術はできない、なぜならこの怪我人は自分の息子だから」
これはいったいどういうことか?
このふたつのなぞなぞは、人間の思考の枠組のひとつである「物語」がどういうものであるかを、 僕に教えてくれました。
どうかみなさんも、考えてみてください。
このなぞなぞは、正解に達して終わりというものではありません。
正解に達したときが、人間にとって「ストーリー」 や 「物語」がどういう存在であるかを考え始める出発点です。
(『人はなぜ物語を求めるのか』P.11-12)
問1のほうはここでは扱いませんので略しました。問2が、いわゆる「ドクター・スミス問題」です。解答はP.195に載っており、外科医は息子の母である、というのが答えです。外科医は男だという思い込みから、即座に答えに行きつく人は少ないとされています。
正解への疑義
さてさて、なるほどそうかと納得できますでしょうか?
ミステリの読者であれば、この程度の問題に引っかかることはありませんよね。そもそも答えを知ってたという人も多いでしょう。ちなみに、別解として、もう一人の男親(離婚した前の妻の子)といった可能性もあるのですが、そちらはいったん置きます。
自分が疑念を持ったのはその先です。最もシンプルな答え(外科医は母)に行きついた後の話です。
こう思うわけです。外科医は母だとして、なぜ「手術はできない」などと言うのか、母だったらなぜ手術できないのか、まったくなにも説明されてないじゃないか、と。
答えを知ったあとに「なぜ手術できないのか」と問うのは、「話が読めてない、お前は共感力がないのか?」と言われそうです。
もちろん、出題の含意を常識的に解釈すれば「母親にとって我が子を手術するのは平常心を保てない。夫も亡くなってるし」ということなのでしょう。さすがにそれはわかりますし、他に合理的な説明はちょっと思いつきません。
だけど、その解釈には別の種類の偏見が入っていませんか? 母親が息子を手術するのはそんなに難しいことなんですか? それって常識なんですか?
読者は答えを知った後、問いの含意を忖度して無自覚にストーリーを作り、勝手に納得しているわけです。これは答えとセットになっていて、自動的で、ほとんど不可避とさえ言えます。
しかし、この常識的な解釈は、本書の説く理屈を適用するならば「根拠のない因果関係」(P56あたり)でしょう。
行動図式に合致しておらず(P.118)、捏造した一般論(P.122)で、そうあるべきという道徳(P.142あたり)でもあり、「手術はできない」は、本筋でない余計な情報(P.37)な気もします。
出題文そのものに、思い込みによるバイアスが混入しているのではないでしょうか? 問いそのものが妥当なのか疑問です*1。
身内の手術は避ける?
医療の世界では、身内を執刀するのはなるべく避ける(代わってもらう)らしいのですが*2、ふつうそんな知識は持っていません。じつは、この話には、「代わりの人員がいる」という含意、前提があるのですね。代員がいるのは常識だと言われればそれまでですけども。
しかし、代員がいるということに思い至らなければ、「手術はできない」つまり「手術しない」という発言に納得できる説明を付けるのは困難でしょう。
もう一つの疑義――なぞなぞ?
これは「なぞなぞ」じゃなくてクイズでしょう? クイズとなぞなぞの違いはそれほど明確ではありませんが、ふつう、論理的に考えて答えに行き着く問いをなぞなぞとは言いません(あとで出ますが英語ではriddleです)。なぞなぞは言葉遊びで非論理の直感。だから、なぞなぞだと思って「手術できないっていったいどういうことなんだ?」とか考えちゃうと正答できないわけです。問いの前からミスリードされています。
いわゆる「ドクター・スミス問題」とは
さて、ここまでツッコミどころがあると、この問い(有名ななぞなぞ?)の元ネタが気になりますね。
この問いは(日本では)ドクター・スミス問題として知られていて、ジェンダーステレオタイプ/ジェンダーバイアス/アンコンシャスバイアスの文脈でよくあげられています。
この問いを枕にするとコラムが書きやすいのでしょう。あちこちのサイトに載っていて、それぞれ微妙に文章は違っています。医師はドクター・スミスという名前でアメリカ・コロラド州の腕利きの外科医で州知事にまで信望が厚い、というプロフィルが冒頭に付くことがあります(だから「ドクター・スミス問題」と呼ばれているわけですが)。最後のセリフ「手術はできない」はないものも多いようです。
誰も出典に触れておらず、ソースロンダリングされている感があります。この、日本で流布しているバージョンの源流は、おそらく以下です。
「社会志向性」と「社会的コンピテンス」を教育する(3) : 中学2年生を対象とした授業実践
名古屋大学学術機関リポジトリ(2002年受稿とある。Web公開は2006年)
https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/1725
(PDFから画像キャプチャ)
なんだかまだるっこい文章ですけど、意図的に誤認に導き、かつ、意図せぬ誤読は起きないよう注意深く書かれている印象は受けます。
画像を見ればわかるように、さらにこれの元ネタは「渥美(1995)」となっています(論文なのでさすがに出典明記してあります)。元ネタは、日本経済新聞の夕刊に載った小さなコラム(1995年。著者は弁護士の渥美雅子氏)にすぎず、そこから引用(孫引き)したものです。日本経済新聞の縮刷版で当該コラムを確認すると、
アメリカの心理学テキストにある
と書かれてありました。
「ドクター・スミス問題はアメリカの教科書に載っていたものだ」とかいう話は、ネットのあちこちでも見つけられます*3。しかしいったい、典拠を確認した人はいるのでしょうか?
「手術はできない」というセリフはいつ誰が入れたのか、または抜いたのか? また、ドクター・スミスという名前はどこから出てきたのか? そもそもの大元のネタが気になりますね。
元ネタをたどると、ドクター・スミス問題はドクター・スミス問題ではなかった
英語文献までは調べられないなあ……とか思っていたのですが、Googleを駆使して、なんとかやってみることにしました。
……たしかに、英語のサイトにも同種のお話がいくつか見つけられます。ただし、検索ワードを変えたり絞ったりしていくうちに、どうやら英語文献にはDr.Smithという名前は出てこないらしい、と気づきました。というか、検索ワードからSmithを抜けばいいと気づくまでだいぶ時間をかけてしまいました。
「ドクター・スミス問題」は、英語圏では「ドクター・スミス問題」ではなかったようなのです。
グーグルブックスで「psychology riddle doctor father」などの語で絞り込み、1975年までさかのぼることができました。
Contemporary Social Psychology: An Introduction (1975)
Contemporary Social Psychology: An Introduction - William Samuel - Google ブックス
psychology riddle doctor father - Google 検索
(検索画面から画像キャプチャ)
(そのリンクから画像キャプチャ)
本のタイトルは「現代社会心理学入門」みたいな感じ。ごく簡単な文なので中学英語レベルでも読めます。こちらにドクター・スミスという名前はありません。いいところで切れてしまっていますけど、画像で“I Can’t Operate,”というセリフが確認できます*4。これが初出とは限りませんが、おそらく原型に近いものと思われます。
「手術はできない」のセリフは昔からあったのでした。
……ということは、断言はできないものの、Doctorにスミスという名を与えプロフィール等を追加*5し「手術はできない」のセリフを削るアレンジをしたのは渥美氏だったということになる……のでしょうか。
最後のセリフの有無は重要な違いです。英語のサイトや書籍では、近年のものでもセリフはあります。
いわゆる「ドクター・スミス問題」、(セリフの有無など違いはあるとしても)ジェンダーバイアスをテストする問いとして、いささか安易に使われ過ぎています。少なくとも、父母を逆にして問い、正答率を比較しなければ、ジェンダーバイアスの問題とは言えません。「有名ななぞなぞ」なのに調べた人はいないんでしょうか*6。
正答できなかった人は本当に「ドクターを男と思い込んでいた」のかな? 別の種類の思い込み(奇跡のような偶然は考慮しないとか、医師は常に第三者とか)が働いているとも考えられますし、問いにミスリードされていたり(手術できないってどういうこと?)、問いの趣旨が飲み込めてなかったりするのかもしれません。どうも遡行的に「ドクターを男と思い込んでいた」ことにさせられている気がします。バイアスがあるだろうというバイアスが、出題側にあるんじゃないでしょうか。
このテストでわかるのは、引っ掛け問題に引っかかる人が多いということぐらいでしょう。あまり出来のいい問題とも思えません。
ミステリ小説は読者を騙すために騙すわけだからいいのです。ドクター・スミス問題も、クイズとして楽しみ、思考のクセを認識するぶんには、まあいいと思います。
ですが、ドクター・スミス問題で読者を騙してジェンダーバイアスだとかを自覚させよう、なんていうのは不誠実です(いや、そういう記事がチラホラあるんです)。
ストーリー形式からは逃れられないけれども
回り道をしてしまいました。
『人はなぜ物語を求めるのか』はストーリーについての本でして、ジェンダーバイアスが云々……と説教するようなところはありません。
『人はなぜ…』のバージョンではドクター・スミスという名前は出てこないので、英語文献からの引用のようです。これを「ドクター・スミス問題」とひとまとめにしてはいけなかったかな。ただ、こちらには上記の元ネタにはないダンプカーや救急車が登場し惑わされます。「ある男」を主語に始まり「運転した父親」が死亡するという文章にも不自然さがあり、誤読を誘います。ちょっとずるいですね。
この問いはミステリ小説でいうところの叙述トリックに近いものです*7。本筋ではない余計な情報をバサバサと削っていけば、バイアスの働く余地が消え、何の不思議もなくなります。
書いてないことを勝手に読み取らなければ、バイアスは働きません。ですが、空所は勝手に埋め、本筋でなさそうな情報はいったんスルーしなければストーリーを読むことはできません。つまり、「お話」になりません。
答えを知った後に、「手術はできない」のセリフから「母親にとって我が子を手術するのは平常心を保てないものだ。夫も亡くなってるし」と、偏見入りで自動的に空所を埋めてしまう。無自覚なストーリー生成です。それがストーリーを読むということです。
『人はなぜ物語を求めるのか』では、人はストーリー形式の認知を止めることはできないが、自動的なストーリー生成を手放すことはできる、と説いています。それは考えるのをやめることではなく、ストーリー形式の認知を自覚し、無根拠な因果関係から逃れようという話ですよね。
誰でも陥りがちな思考のパターン、自らのストーリー生成に躍らされていないか。正解を提示されたからといって、そこで思考を止めないように。