遠近法ノート

本好きのデザイナー、西岡裕二の日記帳なのです。デザインと読書について書くはず。

自分は自分の主人なのか? ハインライン『人形つかい』と操りについて考えていたら『デカルトの密室』に行き着いた。人形つかいと人形使いと人形遣い。

昨年夏、『月は無慈悲な夜の女王』を読んで、もやもやしたままに終わってしまったのでハインラインの他の代表作も読んでみようと『人形つかい』を手に取りました。
人形つかい』は侵略テーマの古典SFで、こんなふうに始まります。

アメリカの片田舎に宇宙船が着陸、調査に向かった捜査官6名が行方不明にもかかわらず、何の騒ぎも起きていない。主人公サムは上司に命じられ、同僚のメアリと3人で、家族旅行を装って調査に向かった。同地では、宇宙船はインチキで農場の若者が作ったハリボテだというのだが……。

以降、いろいろネタバレありなので、未読の方はご注意ください。

メアリが赤毛なのは何故か?

秘密捜査官である主人公サムの同僚として登場するメアリ。赤毛であるという点がやけに強調されます。サムも、メアリの兄という設定で赤毛に変装させられます。これはなにかの伏線っすか?
さっそくネタバレになりますけど、これ、作中ではとくに伏線回収されません。
では何故メアリは赤毛なのか? 赤毛の必要があるのか?
ミステリ読みであれば、赤毛と言えばシャーロック・ホームズの「赤毛組合」を思い出さずにはいられません。以前、『月は無慈悲な夜の女王』を検討したときに、ハインラインはしばしばホームズネタを入れてくる作家だということが確認できています*1から、この線で解釈してみることにします(奥さんが赤毛なのでハインラインの小説は赤毛の登場率が高いという元も子もない説を目にしたけど、そんなん知らんがな!)。
メアリが赤毛であることは、単なるお遊びに過ぎないのか、それとも物語のテーマに関わってくるのか。
ひとまず「赤毛組合」のストーリーを復習してきましょう(Wikipedia:赤毛組合)。

赤毛組合」と操り

簡単に説明すると、「赤毛組合」は、赤毛の男が犯罪者に操られるお話です。男が赤毛であることには、とくに意味がありません。たまたまそれを利用されただけです。男は仮想の組合から単純な仕事と報酬を得て、自ら気付くことなく犯行に協力する形になります。赤毛の男には罪もないのですけど、あまりに愚かではあります。これは、「無料の昼飯はない」がモットー(?)のハインラインには到底許しがたいのではないでしょうか?
「操り」はその後のミステリにおいて大問題に発展するわけですが……素朴な形ではあるものの、ホームズ譚第2作で「操り」というミステリジャンルの一大テーマの萌芽が現れているんだなあと、とりあえずは思ってください。

パペット・マスター

外見が人間のまま中身は異種の生命体に乗っ取られるという設定は、今ではSF映画でおなじみのネタとなっています。特によく知られているのが、ジャック・フィニイ『盗まれた街』と、その映画「SF/ボディ・スナッチャー」。
時にゾンビ・ホラー系*2と被ることもあり、よくあるネタと見過ごされそうなのですけれど、乗っ取りの形態により、その意味するところはだいぶ変わってきます。『人形つかい』での設定をまとめてみます。

  • ナメクジの様な寄生生物が肩の後ろにとりつく。
  • とりつかれると、知能も含めて寄生生物に利するようになる。
  • 彼らは情報を同期している(携帯型ゲーム機すれちがい通信みたいなやり方)。
  • 彼らに彼ら自身の知性や思想があるのかどうか、本当のところは分からない。
  • 彼らは宿主がいないとほとんど何も出来ない。
  • 寄生生物を引きはがすことが出来れば、宿主は無事。とりつかれていたときの記憶も残る。

……と、こんなところでしょうか。
フィニイの『盗まれた街』では「複製にすり替わる」ので不可逆なんですけど、『人形つかい』は「すり替わり」ではなく「操り」である点に注意です。

一人称が乗っ取られちゃう

人形つかい』は主人公サムの一人称で語られます。『宇宙の戦士』『月は無慈悲な夜の女王』と同じく視点変更は一切なし。サムが見たこと聞いたことしか、読者は知ることが出来ません。
じつは、序盤にサムが寄生生物に乗っ取られる一幕がありまして、恐るべきことに、そのまんま一人称で進行します。自分で考え行動することがすでに寄生生物に利するという、「記憶や意識も含めて」自由意思そのものが乗っ取られる状態が、説得力を持って描かれています。よくある「頭に指令が響いて自分の意思が奪われていく」とはだいぶ違います。
寄生生物の宿主となった人間に、主人である寄生生物の意思は分かりません。主人に意思と呼べるものがあるかどうかすらはっきりとは分かりません。
サムは秘密捜査官なわけですが、彼の所属するような組織は、末端構成員に情報をすべて与えるようなことはないですよね。上司の命令は断れず、もともと、サムは操られている存在だったとも言えるでしょう。ストーリーが進むに従って、そのサムが自らの意思で敵の掃討を願い、作戦に参加し、実行するようになります。
一人称の語り手であるサムは素朴で単純直情型。自分の理性を疑ったりはしないタイプとして描かれていますが、読者のほうはそういうわけにもいきません。一人称さえ乗っ取られうる小説世界で一人称の主人公を信じるのは、読者として不可能。作中でも、ほんのちらっとですけど、自分の意思が自分のものか疑うようなセリフを吐く人物が出てきます。でも、自分を信じ、考えても仕方がないことは考えないのがハインライン流のようです(ちなみに、デカルトの「我思う故に我あり」も、「そこから先は疑っても仕方ないからとりあえず考えないことにしようや」くらいに解釈することも可能。というか僕はそういう解釈してましたけど)。

ネットワークの強さと弱さ

さておき、ここまで見てくると、どうやらハインラインの『人形つかい』は、「赤毛組合」から「操り」のテーマを引き継いでいるのは間違いなさそうに思えてくるわけです(それは、ミステリにおける操りテーマとは少し違うかもしれません)。メアリらを赤毛としたのは、それを示すためのちょっとした手がかりだったのではないかと。いや、ぜんぜん証拠はないんですが。
「組合」とは、つまりネットワークのようなものです。『人形つかい』の終盤では、寄生生物のネットワーク的な習性を利用してウイルスをばらまくことで(これまた多くのSF作品の元ネタっぽいですね)、サムたち人類がいったん勝利します。ですが、戦いはまだ終わっていません。
物語の始まる第1ページ目。サムは「もし彼らに彼ら自身の知能があるなら人類は負けるだろう」というようなことを言っています。実際はかなり持って回った言い回しなのですが、つまり、人類が勝利できたのは寄生生物がいわば自動的(もしくは動物的)な存在だったからで、彼らにネットワークを統合する「意思」があったら勝てる見込みはない、と。
表面的には、単体の寄生生物が人を操るわけだけど、その単体の寄生生物を操る上位の存在があるのかという問題は、なんだか「脳の中の小人」の話を思わせます。
設定上の不備や曖昧さもあると思うので、あまり深読みしてもアレですけれど、組合的な組織って意思決定が曖昧になりがちですもんね……。

人形つかい人形使い人形遣い

人形つかい、といえば、今となっては『攻殻機動隊』(原作もしくは押井守監督の映画)に出てきた「人形使い」を思い浮かべる人のほうが多いと思います。元ネタと言えばそうでもあるのでしょうけど、両者はぜんぜん違うお話です。にもかかわらず、先にまとめた『人形つかい』のナメクジ型寄生生物の設定を読み返すと、意外なほど『攻殻機動隊』の「人形使い」のエピソードを思い出させるものがあるんですよね。ネットワークに知性があるか、みたいな問題を扱っていて、単に名前を借りただけというわけではない。
また、ハインラインの『人形つかい』を経てみると、瀬名秀明『パラサイト・イブ』の設定したテーマの新しさが今更ながらよく分かります。人間がすでに寄生者と融合共存しているところから話が始まるわけで。
そんなことを考えながらネットをさまよっていたら、面白い対談記事を見つけたのでリンクしておきます。
http://sci.digitalmuseum.jp/project/gis/mayfes/
とくに6の「ミステリー・同期」あたりは必読。
瀬名秀明デカルトの密室』には、ずばり「人形遣い」という表現が出てきます。これは当然ながら『攻殻機動隊』の「人形使い」を踏まえたもの。
デカルトの密室』は、とても複雑な構造の小説で、正直なところ理解がいまいち追いつかない! ミステリにおける操りテーマと、SF/ロボット工学における「操り」の問題(ロボットは人間の用意した箱庭の中で動いているだけなのではないか)を、同一の問題として統合しようとしたのかな……という感じはします。

……そんなわけで、今回は図らずも「赤毛組合」を起点に、人形つかい人形使いとなり人形遣いになる、という操りの系譜を追ってしまいました。
方法序説』再読するかなあ……。

*1:追記:ちなみに、初期の作品『ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業』には「赤毛連盟」への言及がありました。やはりどこか気に掛けている様子です。

*2:ゾンビについては、『ポストヒューマニティーズ』所収の「新世紀ゾンビ論、あるいはHalf-Life半減期)」がおすすめ。